一般社団法人日本道経会

世代をつないで

小宮 太郎
  • 東京支部会員
  • 小宮畳店

小宮畳店は私の祖父が関東大震災の後に興し、お陰様で創業100年を超えることが出来ました。

関東大震災の前から既に職人として、所帯を持ち、私の父(当時5歳)を守りながら隅田川に逃げて助かったと聞いています。全てを焼失しても、若さで乗り切ったそうです。それから戦時中は家族も増えましたが物資が少なく、その当時、需要の多かった軍刀の鞘を削る仕事をしたり、贅沢品となった畳を闇で流通させて警察に捕まったことが有ったそうです。青年になっていた父は兵役の為、戦地にいましたが東京大空襲では幸い家族全員無事に生き延び、着の身着のまま親戚を頼って、埼玉や千葉に避難していました。しかし、多くの隣近所の方とはそれ以来、会うことがなかったそうです。

終戦で私の父が戦地から帰って来て、祖父と畳職人として、東京に出て来た折に昔の知り合いに会い早く戻って来いと紹介されたのが現在の横網の地でした。

父の弟や若い従業員も雇い、年末は31日まで仕事をしてもやり切れない程の需要があったそうです。私の記憶にある仕事場は藁だらけで畳表を包んでいるのも藁ゴモ、縛っている縄も藁で私たち子どもにとっては楽しい遊び場でもありました。その頃は家族全員が何かしら手伝い私は五右衛門風呂の掃除や風呂焚きを得意としていたのを思い出します。

私が高校を卒業して家業を手伝うことにしたころは、父の弟は独立し、従業員もいませんでした。既に戦後30年になる時期で世の中全体の景気も悪い上にイスとテーブルの生活が根付き始めて畳の需要は先細りという時代でした。私が高校を卒業した時点で父は55才でした。大企業では55才定年の時代で勿論、畳屋には定年があるわけではありませんが早く手伝わなければという思いだけでした。実際には父は90歳近くまで家長としてその責任を全うしてくれていました。

昭和58年にモラロジーの知り合いから宮内庁の仕事のご縁を頂きました。年末に賢所の畳を200枚くらい張替えさせて頂き、その当時、初代の小宮寛(85才)を筆頭に父、叔父、従弟、私の3世代で仕事をさせて頂いたことは小宮畳店の歴史に燦然と輝く記憶となりました。以降、入札ですから、毎年というわけではありませんが、可成りの頻度で仕事をさせて頂きました。それ以降、賢所で使う特殊な神座や茣蓙の製作や修復もさせて頂いた実績がかわれ、平成2年の大嘗祭に使われる畳を製作させて頂くことにつながりました。

当時、我が家では家族の病気や土地の問題などありましたが、畳職人としてやってみたい、やらせて頂きたい気持ちが勝って、お引き受けすることになりました。実際に製作にあたっては神様から守られたとしか思えないような不思議な経験が幾つもありました。例えば、相続の問題で土地を半分にしなければならず、買い手がつくまで仕上がった畳を倉庫代わりに使うことが出来、そして、仕上がった畳を無事、皇居に納品して、一週間後に買い手が決まり、一ケ月後には更地となっていました。

自分が頑張ったから、というのではなく、大嘗祭という国民の大切な行事を成功させようという国民の思い、祈りが有っていろいろと守られたとしか思えない体験でした。

お陰様で小宮畳店として社会的な知名度も上がり、いろいろのメディアに取り上げられました。

その後、父は東京都畳工業協同組合の理事長を2期務め、その当時300名以上いた組合員の代表として貢献することが出来たのもモラロジーで教えられたことの実践だったと思います。

父は東京都畳工業協同組合の推薦で東京都優秀技能士の栄誉を頂くことが出来ました。それ以上の喜びは私の姉の次男が大学を卒業後、当小宮畳店に就職したことです。早速、畳職業高等訓練校に通い、順調に畳技能士二級、一級を取り、平成30年頃から文化財畳技術保存会(京都)の集まりに参加し、研鑽に励んでおります。私が祖父に手仕事を習った時代とは大分違い、さらに厳しい時代です。新たな価値を見出せるよう応援していかなければと考えています。

それらを見届けた父は平成20年に90歳で8人の孫に看取られながら天寿を全うし感謝の気持ちしかありません。それから令和になって小宮畳店にとって2回目の大嘗祭の畳の依頼があったことはこの上もない名誉でした。今回は前回と違って、孤軍奮闘ではなく同業者の優秀な若手と情報交換しつつ手分けをして無事納めることが出来ました。

前回と同じように多くの方々に支えられ、守られたと思います。その感謝の気持ちで裏方のお手伝いを申し出ることが出来ました。実際には一度納品した畳等を大嘗宮の手前の小屋まで運ぶとか、大嘗祭終了後の片付けのお手伝いをすることで間近に大嘗宮を見学するという貴重な経験をすることが出来ました。何より、一緒に難しい畳を製作し納めることが出来た仲間がいることは大きな喜びであるとともに一緒に製作にかかわった甥にとっても良い経験となったことは言うまでもありません。

その甥は地元の小学校で小さな畳を製作する特別授業を毎年引き受け喜ばれています。今の小学生にとって畳は日常生活の場面にはなく、どちらかというと特別な場所になっているようですが、少しでも畳のある生活の良さを伝えて行く事が私達の使命だと感じています。

私が畳屋になったころは近隣にはメリヤス工場が多く、従業員の寮、木造の3畳とか4畳半で便所は共同のアパートも多く、一般住宅の仕事も多くあり、集合住宅には必ず、畳の部屋がありました。ほぼ50年経て、木造のアパートは皆無、マンションはフローリングが増え、お寺でさえ、絨毯を敷いて椅子が多くなりました。畳そのものも藁床から化学床といわれるインシュレーションボードと発泡スチロールを組み合わせた床が主流となり、厚みが15ミリしかない畳も増えています。表は国産から中国産、さらに和紙表、樹脂表のなどいろいろな化学素材が出てきて、それぞれに適した使われ方をしています。

此れからも顧客のニーズや素材の変化に対応して次世代がしっかりと経済的に立ち行く様にすること。100年以上の耐久性のある藁の畳技術を残せるよう畳業界のネットワークを更につないでいけるよう貢献することを目標に祖父母、両親がつないでくれたモラロジーの学びに感謝し、今後も皆様の為に最善を尽くしていきたいと思います。