一般社団法人日本道経会

生産者から消費者へ美味しいを繋ぐ~理念と不易流行~

小林 忠祐
  • 千葉互敬塾 支部長
  • 株式会社小林海苔店 代表取締役

私の家業は大正から続く海苔問屋です。海苔の業界ではよくあることだったのですが、冬時期に仕事のない長野の人間が東京湾の海苔養殖の手伝いで出稼ぎに来ていました。私の曾祖父もその一人で、多くの財を成した人物だったと伝え聞いています。

やがて国内は高度成長期と言われる時代に突入し、国民の生活水準が向上するに連れ海苔の需要も増えていきました。小林海苔店も多店舗展開するようになり4人の子を持つ曾祖父はそれぞれの事業所に彼らを配置します。2世代目の方々はいわゆる「お坊ちゃま、お嬢様」と呼ばれるような育ち方で経費を読んで字のごとく湯水のように使っていたそうです。次女筋の息子である私の父(3世代目)も比較的裕福に育っていましたが長男、長女筋の家系からは若干虐げられていました。

昭和46年、当時としては片田舎であった千葉県柏市の卸市場内で店舗を開店する際に「のれんわけ」という形で店主に抜擢されたそうです。父は店の営業と並行して夜間大学へ通っていましたが、中退し本格的に仕事に専念します。程なくして船橋にある本店が大火事にみまわれ、その影響で他の店舗も閉店。事実上本家は廃業し、資本が別だった分家の柏店だけが残りました。昭和63年、株式会社小林海苔店として会社設立。ここからが父の本当のスタートとなりました。

父が会社設立後、私が小学生に入学する頃は両親共に働いていたため、夏休みなどは市場の作業場で過ごしたり、配達についていくことが多かったように思います。この頃は家族で営む〇〇商店のような業態やお寿司屋さんが主なお客様でした。まだ若かった父は地域の隆盛とともに、時にお叱りを受けながら成長していったと聞いています。卸売市場の中には競合も多かったのですが「良いものを適正な価格で売る、それ以外は細かく、丁寧なサービスで勝負」をモットーに売上を伸ばしていきました。これはパートとして働いていた当時70代の方から教えてもらったそうです(弊社の名誉会長になっています)。卸売市場は人情商売のようなところがあり会社に理念というものは言葉としては掲げていませんでしたが事業の継続の精神として上記の言葉は常に父の心の中にあったようです。勉強家でもあり、様々な団体のセミナーや研修に足を運んでいてモラロジーの集まりにもオブザーバーでは幾度か参加していたようです。

会社設立10年後、今まで主要な顧客であった地域の商店やお寿司屋さんが、乱立するスーパーや回転寿司に圧されていく形で無くなっていくことが多くなりました。ジリジリと売上が減る中、父は自身のモットーはそのままに顧客ターゲットを量販店へ定め直します。提案する海苔の価格は競合と同じか、ちょっと高いくらい。それでも鮮魚と同じトラックに毎日必要な分だけのせる、細かなカット(巻き寿司にはサイズがあります)に対応するなど通常海苔問屋がやらないような作業をこなすことで契約をとっていきました。

ある冬、番頭役である社員が交通事故で長期離脱することになり早朝の商品の積込要員がいなくなってしまいました。父と母は話し合いの末、当時高校生だった私と1つ下の弟に店を手伝うように言い渡します。期間は社員さんが戻るまでの数か月だった記憶がありますが冬時期、朝4時からの作業ですので関東といえ半屋外の市場は相当な寒さです。作業自体は伝票に従い商品をピッキングしてトラックにのせるという単純なものなのですが、手が悴み何往復もすると息が苦しくなりました。朝8時に仕事が終わり登校するという毎日が続きました。冬が過ぎ、学年が変わる桜の頃、父から「もう大丈夫だよ」と言われ刑期を終えた服役囚のように普通の学生に戻りました。あの冬に「海苔屋としてはじめて仕事をした、貢献した」という気持ちが生まれ、跡を継ぐことが将来の選択肢に入ったと思います。

そこから更に10年が経ち、東京で仕事をしていた私は父のもとへ戻ることになります。久しぶりに海苔と向き合い、市場の早朝の喧噪を味わいました。その数年後には弟も入社し家族で働く穏やかな雰囲気で時が過ぎたように思います。この頃、日本道経会の青年部組織である互敬塾も地域の先輩に誘われ入塾しました。その後、震災、コロナ渦を経て海苔の業界にも変化が出てきました。国内での海苔の生産量が激減しお客様への供給、提案が非常に難しくなっていったのです。また、弊社の主要顧客となった量販店も各地でオーバーストア化が進み価格競争が激化。求められるサービスが顕在的には変容しているのを感じました。提案価格が見合わず契約が切れる取引先もでてきました。大店法(大規模小売店舗法)の廃止から30年近く経ち今までの販売チャネルや戦略を再び見直すタイミングです。

特にコロナ渦以降は今までのBtoB中心の仕入/販売体制を見直しました。幸い弊社の卸先は高い志を持ち成長している企業様がまだまだ多く、その部分を十分ケアしつつ、直接消費者へお届けするBtoCへ売上をシフトしていく戦略を立てます。販売チャネルは卸売市場の店舗だけでは足りません。ECサイトをオープンし、地域のマルシェなどの出店やワークショップを行うようになりました。道の駅や物産展など今まで事業領域としていなかった観光分野輸出事業にも販路を広げました。しかし、全ての販売先で順調に売れるわけではなく、商品の改良や販売価格などブランディングやマーケティングといった要素に頭を悩まされる時間が多くなりました。そういう時は「良いものを適正な価格で売る、それ以外は細かく、丁寧なサービスで勝負」に立ち返り心を整えます。これは廣池博士の提唱する「商品は中の上を目指すのが良い」とも重なり自分の中では非常に得心の行くものです。現在では下記のように経営理念を定めています。

企業理念

ミッション:「生産者から消費者へ“美味しい”を繋ぐ」我々は日本の伝統食品である焼海苔の中間流通業者としてステークホルダーに最大の効果が波及できるよう事業を展開します。

ビジョン:「思考し続けること」「行動し続けること」「三方よしの経営を行うこと」目的達成するための指針。自己、相手、他方(世間)の三方全てに利する取引となる提案、サービスの提供を目指します。

2024年より大学院の卒業論文テーマから派生する形で「自社で海苔を作る問屋」として千葉県いすみ市で青のりの陸上養殖にも着手しました。これも理念から逸脱しているわけではなく消えゆく伝統産業を助け、消費者に海苔のある生活を送ってもらうための一手であると考えています。今後も社内外で様々な困難が待ち受けていることと思います。特に「人を育てる、人を財として残す」といったところでは家族の支えや現在の社員の助けもありまだまだ宿題としている部分が多いですが道経一体の思想をより勉強し不易流行の精神を胸に精進して参りたいと思います。