会長訪問シリーズ!「親子のアトツギ物がたり」
第1回 風澤俊夫/俊一さん 親子に聴く
「親想い、子想いの関係はいかにして育まれたのか」前半
出演
- 生田 泰宏
- 日本道経会 会長。生田産機工業株式会社 代表取締役。京都支部所属
- 風澤 俊夫
- 有限会社柏駅通たばこ店 代表取締役。千葉支部所属。風澤俊一氏の父
- 風澤 俊一
- 日本道経会 理事。フーサワ商事株式会社 代表取締役。千葉支部所属。風澤俊夫氏の長男
「継承した後もね、失敗してもいいよっていうスタンスです」
- 生田
-
まず、会長の俊夫さん。この会社の創業から、この柏の地で事業展開していかれたお話を伺わせてください。
- 俊夫
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はい。
風澤というとこの柏ぐらいしかいない名前でございます。
最初にはじめた事業はタバコ販売の事業なのですが、創業は言われると、大正初年(1912年)といわれているんです。 日露戦争後で柏の人口は3万とか4万とかの時代です。 いまは40万ほどの人口がいますが、当時は田舎町に近かった町なんです。
- 生田
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会長で4代目。じゃあ、(俊一さんは)5代目。
- 俊一
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はい。
- 生田
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それではまず、4代目として継がれたあたりのお話からお伺いしたいです。
- 俊夫
-
はい。
私は大学卒業してから、倉敷の洋服屋さんに3年ほど見習い奉公をしました。
その当時、うちは洋服屋だったんです。私が柏に帰ってきたその年の暮れに「そごう」と「高島屋」がほぼ同時にオープンしまして、これは今後洋品はダメだろうということで飲食の方に切り替えていきました。
モラロジー関係とか商業会関係とか父の友達たちが色々お手伝いしてくれまして、飲食の方に切り替えていったんです。
不動産屋も父が始めました。当時の田舎の不動産屋はどちらかというと、「悪さして儲ける」ような時代で、まともな不動産屋をやろうということで、父が当時の洋品屋の社員から出資金を募って、不動産の会社作っちゃったんです。
- 生田
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じゃあ、その当時から事業展開を。お父さんと二人三脚で変化を遂げられたということですね。会長もお父様と上手に事業を変えていったと。
- 俊夫
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私が見習い奉公の倉敷から帰ってきて10日も経たないうちに、父は銀行の判子と会社の実印を私に渡して、あとはよろしくと。印鑑を預かった時点では、私は社員なのか役員なのかまださっぱりわからないという状態で、仕方ない自分で専務だっていって仕事をしていました。今回の事業承継の話にも通じるんですが、私も早くに父から会社を渡されちゃったもんでね。それで、子どもに早く渡すっていうのに不安が全然なかった。
むしろ私も若いうちに飲食を出店して痛い目にあって撤退とかですね、やっているわけですよ。そうすると、だんだんいろんなことがわかってくる。継承した後もね、失敗してもいいよっていうスタンスです。
- 生田
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なるほど。
普通だと、「まだまだ息子には」「俺がやるんや」みたいなところがありますよね。オレオレっていう気持ちがありすぎるところが事業承継の問題の根っこがあると思うんですけども。
会長そのものが若くしてお父さんからバトンを受けた。その経験が次の世代へのバトンの渡し方にも繋がっているんですね。
風澤家の「家族のきずな」が自然に事業承継につながった
- 生田
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おふたりの男の子に恵まれて、「風澤の事業を継いでほしい」「これはお前たちの使命だ」というようなところですが、どういうようなお考えがあったんでしょうか。
- 俊夫
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長男の方については、ここのビル(風澤ビル)を立ち上げる時にお手伝いしてくれた人が、 「先々どっちみちこの土地建物を継承する人だから」と不動産屋の見習いを紹介してくれたんですよ。 不動産屋で見習いを受け入れてもらえるなんてめずらしいことなんですが、もうその時点で不動産の会社は継承するという、そんな立場でした。
次男の方は、布団屋の大手に就職していたんですけど、飲食の方やってねっていうことで、帰ってきてもらったんです。
- 生田
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なるほど。
次男さんも就職されていたけども、比較的ためらいなく素直にお父さんの飲食の事業を継がれたんですね。何年前ですか?俊一さんが帰ってきたのは。
- 俊一
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ずっと会社に所属はしていまして、もう20歳の時からもう社員という形になっていました。 飲食店の方も役員として席がありましたし、形式上はずっとフーサワグループに所属しているという感じですね。
- 生田
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そうすると、いつ頃からアトツギを考えたのかというよりは、風澤家の中にある家族のきずなというか、 別に言葉出さなくても家柄も含めて葛藤なく自然とついでくれた感じなんですね。
風澤家における「事業承継の秘訣」とは
- 俊一
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ここで話さなければいけないのが、会長はフーサワの4代目として親子経営を続けてきたんですが、実は会長自身も兄弟経営をやっているんですよ。ここが風澤家の事業承継のポイントではないかと思っています。
私自身は4人兄弟なのですが、会長は5人兄弟なんですよ。 しかも、会長は双子の長男です。 双子の次男がこの「株式会社うどん市」という会社をやっています。
会長も兄弟経営で苦しんで、こういう風にしてもらっていたんですよ。 もともと同じ会社に入っていたけれど、別の会社になったんですよね。 ちょうど1970年代のことです。
- 俊夫
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双子が経営していると、社員たちはどっちの話を聞きゃいいんだっていうことになっちゃう。 これはちょっと会社を別にしてくれということで、「株式会社うどん市」を別途作って、そちらを弟がやると。
もうひとつ、「芳園」というラーメン屋(現在は不動産賃貸業)があるんですが、父がですね三男(俊夫会長の弟)をね、ここ社長に据えたんです。 つまり、男3人で、それぞれ会社をつくって分けたんです。
モラロジーでも「兄弟仲良くてもなるべく分けろ」と、道徳的な観点から。 なるべく分けろっていう話を聞いていたんで、なるべく分けたんですね。
- 俊一
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その上で最後に、不動産業のフーサワ商事を作るんですが、私の祖父(会長の父)はここに居場所を作ったんですよ。
飲食は長男、次男、三男に会社を分けて譲って、自分の居場所をここに作っているんですよね。 自分の居場所をつくれば、抵抗なく子ども達に引き継ぐことができる。 多分、本質的にはそれだと私は思っているんです。
フーサワとして結果的に会社を5つに分けて、今でも全部残っています。 創業はタバコ屋がスタートになるので、形式的には創業112年になると。
- 生田
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いち早く上手にこの分社化して、バランスを保つという・・これはどなたの知恵ですか。
- 俊夫
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大筋は私かな。
- 生田
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やっぱそういう危険や、先々のいろんな問題になってくるだろうなと。
- 俊夫
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世間の話を聞くとですね。
- 俊一
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祖父は、兄の養子で入っているんですよね。 単純にお兄さんの会社を継いだんです。 ただ、兄弟間の争いのようなものはなかった。 会長は兄弟が多かったので、会長が(分社化を)考えてやったわけです。
- 生田
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風澤一族、5つ会社がありますけども、各々の会社との繋がりは?
- 俊一
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実は、5つの会社の代表は全員麗澤高校に入学しています。 今の社長、例えばタバコの社長の会長は麗澤高校、大学ですし、弟(俊之さん)も麗澤高校、大学、うどん市の叔父も麗澤高校卒で、 いま不動産賃貸業の芳園という会社も麗澤高校卒で、私は麗澤高校中退と、全員麗澤には入っているんですよね。
- 生田
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それぞれ事業わかれはしたけども、濃淡はあるにしても千葉の柏の場で学んだという共通なところがあるんですね。 風澤一族が一時期でもモラロジーの薫陶を受けたということは、1つの柱としてあるということですよね。
- 俊夫
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コロナで中断しちゃいましたけど、お盆とお正月はみんな集まれっていって。 居酒屋で ワイワイとやってんですよ。 30人ぐらい集まってワイワイやってましたね。