一般社団法人日本道経会

会長訪問シリーズ!「親子のアトツギ物がたり」

第2回 株式会社山嘉精練 山内伸介さんに聴く 前半

出演

生田 泰宏
日本道経会 会長。生田産機工業株式会社 代表取締役。京都支部所属
山内 伸介
株式会社山嘉精練 代表取締役。京都支部所属
石田 麻琴
株式会社ECマーケティング人財育成 代表取締役。東京支部所属。会長対談の取材編集を担当

1.創業と事業
~まさに「バケツひとつ」からスタートした「山嘉精練」~

生田

まずね、山嘉精練の創業と事業について説明していただけますか。

山内

この屋号は、母方のおばあちゃんがつけたんです。 人に相談してつけたみたいなんですけれども、「山嘉精練」っていう名前は世界に羽ばたくよって言われたらしくて。 創業の時は、本当に「バケツひとつ」で始めたぐらいで、世界なんて何を言ってるんだろうと思ってたらしいんです。

生田

創業の地は今の亀岡。

山内

はい。 1970年の8月8日、今から55年前、水がすごく豊かだというところで、選んだ。

生田

お父さんとお母さんが、ご一緒にスタート。

山内

その通りです。 私の祖母、両親の3名で創業しました。 とはいえ、このメンバーで染色を理解しているのは父だけですから、祖母と母は補助的な役割だったと思います。

中学を卒業した父は最初賄い(食事)付きの職業を選びパン屋に就職したそうです。 しかし、パン屋は朝までにパンを焼き上げる、いわば夜中の仕事であるために、パン屋の先輩から「若いのに夜中に働く仕事は辞めて昼間に働きなさい」と言われ、渋々退職。

退職後、父の姉が勤めていた染料の販売店に口を聞いてもらい姉弟で務める様になったそうです。 そこで父は染料の基礎知識を学んだ。

数年後、染料販売店の納入先である染屋さんと従業員たちとスキーに行った時、従業員が足を骨折。 立ち仕事ができないことを不憫に思い、染料販売店の仕事が終わってから染屋に行って手伝っていた。

その姿勢を見た染屋の社長が染料販売店に申し出て、父が染屋へ就職することになり、その後、社長夫人の妹と見合いをして、結婚することになりました。 結婚したら反強制的にもう独立しなさいっていうことで、「山嘉精練」が誕生することになった。

生田

独立する流れで「バケツひとつ」持って染めをしていったと。

山内

はい。

「山嘉精練」は絹糸専門の精練染色業として事業をやっています。 京都やったら西陣織だったり、九州やったら博多織とか、日本各地の生地作りのメインどころから依頼をいただいて、染めてそれをお届けするっていう仕事です。

最近はありがたいことに、「今こういうことで困ってるんだけど、どうしたらいいだろう」って、全国からお客さんが来てくれはるようになりました。

生田

お客さんの要望に応えられるような技術力をしっかりと継続できてる。

山内

お客さんも未来において困り事が出てくるし、時代も変わってくるので、その相談を誰にしたらいいんだろうって。 染めのことを相談するんだったら京都の山嘉精練に相談しよう、企画とかブランディングを相談する時は山嘉精練に相談しようっていう風に、 ぱっと思い浮かんでくれはることが増えてきて。

生田

それはもうブランディングですよね。 技術の裏付けの上でのソリューションですよね。 問題解決型。

2.家に戻るまで
~いつも強気で頑固やし強い象徴だった父から、「家、戻ってきてほしい」って~

生田

中学生ぐらいになるとね、親が「お前、アトツギやぞ」とか。 職人さんがいたりすると、「3代目!」とか。そういう意識が芽生えたり、もしくは「俺は絶対こんな仕事嫌だ」とかいう気持ちが生まれたりだとか。 その辺はどんな感じでした。

山内

実際のところは一度も言われたことがないです。 けれども、自分の中ではいつかこの仕事するんだろうなと漠然と思ってたし、なんかその、親の仕事を誇りに思ってたので。

生田

誇りに思ってたはいつ頃から?

山内

いつ頃かはぱっと出てこないですけど、この仕事はしたいなとはなんか漠然と思ってて。

ただ、就職するときも、父からは何も言われへん。 自分のところは職業が職人で営業がなかったんで、漠然と未来においてこの技術を広げていくためには営業職は必要なんだろうなって。 人に伝えることがうちの会社にもいつか必要になるだろうなと思ってたので、繊維の営業の仕事ができるところに行こうっていうのだけは決めて。

生田

「親の仕事をいつか」っていうことは頭にあり、就職のタイミングでは営業系のところが足りないなって自ら会社を選んだいうことですよね。

山内

就職活動するときに唯一読み込んだ本が、 立命館大学の足立先生という方が書かれた「老舗の経営」という本で。 老舗とはなんなんやっていうことを、その時にすごくなんか興味があってですね。

どうせ就職するんだったら、歴史のある会社に。 100年続いてるってことは、もう本当に景気のいい時も悪い時も、いろんな時期を乗り越えてやってるからっていうので、100年以上続いてる会社に入ろうとは思ってたんです。 それで勤めさせていただいたところが、ちょうど私が就職する時に100周年の会社で、そこに就職させてもらった。

生田

そこから運が開けるゆうか。 自分の事業にしっかりと結びついていける人生選択をしっかりとしたんやなって今思いました。 極めて重要な人生の選択の1つですね。 どっからスタートするかは社会人として。

何年勤めたんですか?

山内

実際、2年足らずなんです。 いつも強気で頑固やし強い象徴だった父から、人生で初めて弱気な言葉を聞いてですね。 「家、戻ってきてほしい」って。

それこそ仕事も覚えたてやし、まだまだやらんとあかんこともいっぱいあったんですけど、「いざ鎌倉」って言葉ってあるじゃないですか。 今なんだなって。 弱気なことを見せたくなかったであろう父が、弱気なところを見せざるを得んぐらい追い込まれたはったんやなって思って。 今、父のことを差し置いて自分優先したらあかんなと思って。

生田

職人然とされて言葉が少なく、親子の関係も、そんな遊んでもらったことがない。 でも意識の中で、その仕事に対するリスペクト、イコールやっぱ親に対するリスペクトが言葉に出さずともずっとありながら、 初めてね、親が「自分に帰ってきてくれへんか」と言った言葉の重みをしっかりと受け取って決断をした。 やっぱり一言の重みで。

3.社長になって
~会社の中で1番年は下、技術力も経験もない「おいコラ社長!」~

生田

それで戻られたのは何歳のときだったんですか。

山内

24歳です。 1996年の1月に山嘉精練に入社。社長に就任したのが2001年なんで、入社して5年の29歳で社長就任。

生田

経験ないところからの5年間はどうやったんですか。

山内

何をしてんのかもわからへんのに営業もできひんと思ってたんで、職人さんに教えてもらって、お客さんとこ商品を届けながら、全体像を見てた感じです。

当時は会社で1番年齢が低かった。 そんな戻って5年で社長になるとは全然思っていないですから、ふわって仕事をしてたぐらいですね。 それが29歳の11月に社長に就任するんですけど、言われたのが1ヶ月前やったんです。 10月やった。

生田

先代の仕事を承継するっていう場面が訪れると思うんですが、決断というよりは、「お前、1ヶ月後に社長や」みたいな形だったんですね。

山内

その当時は理解ができなかったです。 ただ、悩んではった時期みたいなんです。 いろんなことで、とにかく離れたかった。職人としてやっていく自信もなくなったみたいやし、世の中の求められることも変わってきたし。

生田

「お前社長や」ってなってから、ちょっとしんどかったですよね。

山内

昼間はどうやって染めるんですか、って教えてもらわんとあかん先輩方に「こうせい」って言わんとあかんなことやから。 これはしんどかったですね。

わからんなりにこうしてましょう、ああしてみましょうっていろんな提案をするんですけど、 「いや、そんな昔やったけど、うまいこといかんかった」 「そんなんあかん。そんなんできひん」・・って、全部否定されるっていうのが始まり。

生田

そのしんどさはどれぐらい続いていくんですか。

山内

2001年の11月29日に社長就任して7年間です。

それで2008年に従業員さん全員集めて、2013年の8月までの5年間、僕をフリーにしてほしいって言ったんですよ。 5年間時間欲しいっていうのを全員にお願いしてるんですよ。 その5年間で山嘉精練の未来を考えるから、時間が欲しいと。

生田

その決断に至るところの話、ちょっとお聞かせていただけたら。

山内

僕、会社の中で社長なんですよ。 社長だけど、なんて呼ばれるかって言ったら、「おいコラ社長!」って言われてたんですよ。 会社の中で1番年は下だし、技術力も経験もない。 何にもできひんのですよ。

「お前これやってみ」って職人さんに言われたら、本当に八方塞がりで、 「すいません」言うて、もう本当に逃げて帰らんとあかんぐらいのが毎日続くというような状態やったんですよ。

ただ、このままではこの会社あかんようになるなっていうのもすごく感じてて、 でも何にも掴めるようなものもないから、とにかく期限決めて背水の陣の人みたいなのを5年間やったんですね。