一般社団法人日本道経会

会長訪問シリーズ!「親子のアトツギ物がたり」

第3回 株式会社辻洋装店 辻庸介/吉樹さん 親子に聴く 前半

出演

生田 泰宏
日本道経会 会長。生田産機工業株式会社 代表取締役。京都支部所属
辻 庸介
株式会社辻洋装店 代表取締役。東京支部所属。辻吉樹氏の父
辻 吉樹
株式会社辻洋装店 代表取締役社長。東京支部所属。辻庸介氏の長男

バブルが崩壊してから、縫製工場だけで80%以上の同業者がいなくなった。

生田

まず創業のですね。お話からお聞かせいただけたらと思います。

庸介

この会社はもともと母親が作ったんですよ。父親は戦地に向かったんですね。戦争で。家に残った母が食べていかなくちゃいけないということで、じゃあ洋服屋やろうと言って始めたのがきっかけです。

生田

そもそも手習いか何かされていたんですか。

庸介

それはね。もともと母親の実家は静岡県の河津というところなんですけれど、養蚕をやっていたんですね。その時に兄弟がいた中で、一番よく働いたと。「お前には好きなことをやらしてやるから何でも言え」と言った時に、東京を生かしてほしいと、洋裁習いたいということを言ってここへ来た。それで洋裁学校に行かしてもらった。それが縁で、洋服屋ならできるということで開業しちゃったんですね。

吉樹

創業が一応1947年。終戦後二年後に一応創業したということになっています。

生田

会長様の後を継がれたお話を伺いたいんですけど、どういう形でお母様から。

庸介

私、本当はね、継ぐ予定じゃなかったんです。その頃はですよ、針を持ってね、お前一生やるのかってよく言われてたんです。

私はね、高校三年の時に、じゃあ継ごうかって決断をしたんですね。それまでは全然この仕事に入ろうとは思ってなかったんです。で、むしろたまたまなんです。その頃、簿記が得意だったり、実務計算ができてたんで、学校の先生は「お前もう商社が銀行行け、いくらでも紹介しているから」って言われてたんですけど、やっぱ母親はね、なんとなく継いでもらいたいような顔してんだね。継げとは言わないんだけど。で、学校の先生に断って、母親に継ぐよと言って、それからがスタートなんですよ。

それで文化服装学院に行ったんですよ。で、終わって修行に行って。一年半ぐらい。母親が病気になって、家計が成り立たなくなったので、じゃあ帰ろうっていうことで。それからですね。

生田

お母さんの時代、少ししんどかったのが、時代背景的にはずっといい時代がついていく。

庸介

そうです。その頃からね、1960年代、70年代ぐらいまでは良かったんですよね。で、80年代終わって90年代に差し掛かると、日本の経済一気に変わってきましたのでね。

例えば、1990年代は洋服の仕事って国内で50%を作ってたんですよ。ところが今は1.5%。バブル崩壊してから、縫製工場だけで80%以上の同業者がいなくなった。

生田

いい時代から潮目が変わっていく中で、社長さんはどう感じられてたんですか。

吉樹

私が幼い頃は自宅が職場だったんですよ。本当に小さい幼稚園生ぐらいの時。祖父の話は出てなかったですけど、最初の代表には祖父がなかったんです。洋裁の塾みたいなのをやったり、その後祖母と一緒に仕事をするようになって。で、父が継いで、その後私の番っていうその空気感はね、そんなになかったです。家の中におじいさんとおばあさんがいて、父が家の中で仕事してたイメージがあんまりないんですけど、おばあさんがミシンが踏んでて、おじいさんが裁断してて。

幼い頃、仮面ライダーの襟巻きあるじゃないですか。あれを裏地でピシって割いてもらって、首巻いてもらって遊んでたり。そういう環境だったんで、生地が近くにある裏地が近くにあるとか、なんか洋服縫ってるっていう感覚はあったんです。ただ、継ぐとか継がないとかっていうのは、考えもしてなかったです。

生田

吉樹社長は、地元の小中高ですか?

吉樹

僕はずっと地元中野で小中高。大学受験をしようと思ったんですけど、あんまりうまくいかなくてふらふらしてたら、父から「文化服装学院っていうのがあるけど、行ってみるか」と。「分かりました」っていうことで。僕は特にやりたいこともなかったですし。あんまりドラマチックじゃないんだけど、じゃあ薦めに乗ってみようかなぐらいな感じで行ったわけです。僕が入った30数年前も女性がほとんどだったんですよ。学生が50人いて、大体男性が2人か3人とかって。何も知識なしで入っちゃった。

生田

すっぽりハマったんですか?楽しかったんですか?

吉樹

楽しかった。やっぱ指先使うのが好きなのかもしれないですね。だけど、デザイナーとしての才能などあるはずもなく。やっぱものづくりの方なのかなって、その頃から意識し始めて。その後、修業先に。私はアパレルメーカーに就職するんです。ただ、入社して二ヶ月したらね、父が倒れたんですよ。

庸介

私、入院してしまいまして。

吉樹

入社して社会人になって、三年ぐらいいるつもりでいたんです。そしたら6月の辻洋装店の社員旅行で外国に行っている時に倒れてしまいました。

庸介

お医者さんに聞いたら、「このまんまだとあんたも長いことないな」って言われて。ちょうど50歳の時。「こういう状態だから帰ってきてほしい」とストレートに。

吉樹

「これから頑張ろうと思ってたのに、帰ってこい?え?」って。

生田

その時にはもう跡取りとしてもう継ぐっていう目的で修行に出ておられるし、お父様にしても素直に嬉しかった。

庸介

嬉しかったですね。私なりにこんなことを思っていたんです。

この仕事はその頃、人を20人、30人使うようになっていたわけです。家業ではなくて企業としてやっていかなくちゃいけないって思った時に、勉強する部分だとか、蓄える部分、技も含めて結構時間がかかるんですよ。仕事は会社の中でやっていけばいろんなことを覚えられるけど、経営ってなるとそうはいかない。だから継いでくれるんなら、早くしないとダメだなと思っていた。

私は34歳の時に初めて維持員になったんですよ。モラロジーをずっと勉強していくと、人間って一代では大したことできないなと。やっぱり累代重ねていってね、初めてできるようになるんで、続けていかなくちゃいかんなということをね、思っていたんですね。やっぱこの勉強しなかったらそんなこと思わない。

辻洋装店が生き残っているのは、モラロジーと道経一体。裏付けはこの会社なんです。

生田

時代の変わり目で、縫製がどんどん海外に向かっていき、かたや家業から事業にもう社員も増えていっている。逆風の中でも長く続けていくには様々な苦悩があったと思います。

吉樹

そんなにね、私やっぱ深いことあんまり考えてないんですよね。私が帰ってきたのは92年。バブル崩壊後は、都内の縫製工場は軒並みなくなっていくんですよ。ただ大変な時代になるぞなんてことは微塵も思ってない。でも業界の若手のグループに入っていくと、毎年のように倒産だとか廃業になる人たちを目の当たりにして、「あれっ?大丈夫なのかな?」っていう状態になっていくんですよ。

当時今のメインの取引先とのご縁があって、うちの会社はその会社への依存度が高くなっていた時期があったんですよね。同業者のご先輩方から、「依存度がどんどん高くなってやばいぞ」って、言われてたんですよ。ただ、当時アドバイスしてくれたね方々がね、ことごとくいなくなるんですよ。

道経一体では一社に依存するっていうのはダメだって言っているんですよね。自立を促さないからって、戒めているんです。けれども、依存せざるを得ないような状況だとか、そうせざるを得ない時期も今思うとね、会社の判断としてはあったのかなって。

その当時から、父はその道経一体って言葉は出さなかったですけど、社長の考え方だとか、どういうふうに従業員さんと接しているかとか、ちょいちょい聞くようになって。会社の指針ぐらいは、うっすらわかるじゃないですか。決定的なのは、真ん中の将之(次男)が会社に入ってきたときで。兄貴ひとりはまずいぞと思ったのかわかんないですけど、彼も会社に入ってくれる。

生田

将之(次男)さんも自分の意思で。お父さんから言われたんじゃなく。

吉樹

彼は彼で入ってきたんですよ。ただ、とにかく残業が多いし、労働状況も良くない。すごい葛藤がありました。道経会、道経一体っていう言葉もその頃には少しずつ学んでいましたし、道徳的にやろうって言いながら、業界を取り巻く環境はあんまりにも厳しすぎて。ただ、ピークの70年代には東京都内に800社近くあったんです、縫製工場が。それがもう5社しかないんですよ。辻洋装店が残った裏付けがモラロジーだとか道経一体。裏付けはこの会社なんです。