一般社団法人日本道経会

会長訪問シリーズ!「親子のアトツギ物がたり」

第5回 有限会社レイクラフト
鈴木芳文社長・鈴木琴菜 親子に聴く 前半

出演

生田 泰宏
日本道経会 会長。生田産機工業株式会社 代表取締役。京都支部所属
鈴木 芳文
有限会社レイクラフト 代表取締役社長。
鈴木 琴菜
有限会社レイクラフト 経理。

0.ものづくりへの想い、そして次世代へ

生田

本日は有限会社レイクラフトの鈴木社長のお話を伺います。同じものづくりの業界で、私も小さい頃から油の匂いに囲まれて育ってきました。切削油とキリコの匂い。職人さんたちからも「3代目、期待してるぞ!」なんて言われて育つと、自然と「ああ、自分はここの跡取りなんだな」って気持ちが熟成されていくんですよね。

そして、モラロジーとの出会いも、うちの父母が一生懸命やっていたので、自然とその中に入っていきました。会社に戻ってくると、当たり前のようにモラロジーの仲間がいる。いろんな業種の人がいる中で、このものづくり経営は少ないんですよ。だからこそ、今日こうして対談させていただけるのは本当に嬉しいです。

まずは自己紹介と、会社の現在の状況も含めてお話しいただけますか。

1.会社の現在 - 半導体製造装置部品の精密加工

芳文

はい、私どもレイクラフトは町工場ですけれども、社員15名ぐらいでやっております。お客様は一社依存に近いんですけれども、半導体製造装置の一部上場メーカーさんから部品の依頼を受けて、鉄、アルミ、ステンレス等の金属を精密機械加工により製作しています。

生田

創業からは何年になりますか?

芳文

レイクラフトという社名になって25年ですね。

生田

その前は、お祖父様の代から?

芳文

そうですね。祖父がこの会社をいつ作ったかというのは、ちょっと正確にはわからないんですが、叔父が中学校の頃には、もう祖父と一緒に働いていたという感じです。世代的には3世代目ということになりますね。

生田

4世代目にバトンを渡せるかどうか、というところですね。半導体向けの製造装置部品ということは、今はむちゃくちゃ忙しいんじゃないですか?

芳文

そうですね。おかげさまで、ところどころ落ち込みはありながらも、右肩上がりで受注が増えている状況です。ただ、逆にその仕事がどんどん増えているおかげで、他の仕事が入らなくなってきて、結果的に一社依存みたいな状態になっています。

生田

我々の業界でも、特定のお客様への一社依存の怖さというのは、やっぱりありますよね。せめて3社、それぞれ10%、30%で分散したい、というのは理想ですけど、目の前のお客様が非常にヘビーな状況だと、なかなかそうはいかない。中長期で見ると、そこが大きな課題ですよね。

芳文

おっしゃる通りです。今の一番の課題はやっぱりそこですね。協力会社さんは近隣から、ちょっと他県の離れたところ、あとベトナムからも仕入れています。

生田

ベトナムへ部品加工を発注してるんですか?

芳文

はい。お客さんからの需給の幅がすごく大きくて、忙しい時と少ない時の差があるんです。やっぱり忙しくなった時に、お客さんに安定供給をしなきゃいけないということを考えると。

生田

15人の社員のうち、日本人と外国人の内訳は?

芳文

1/3から1/4ぐらいが、ベトナム人です。今は4人ですけど、多い時は6人ですね。

生田

技能実習生と特定技能の制度ですね。それも三方よしを実現しながら、定着率がいいとか、リピートで来てもらっているとか。

芳文

三方よしというところまでは、正直考えが及ばないんですけれども、やはり彼らは若くして異国の地に来ていますので、ご家族、特に親御さんも大変心配されていると思います。親御さんたちに安心してもらうために、仕事だけじゃなく生活も楽しんでもらえるように、海に連れて行ったり、山に連れて行ったり、スキーに連れて行ったりしています。

生田

一番肝心なことはね、「お前ら、俺がお父さんだ」「うちの家族なんだ」っていうふうに、家族のように思ってもらえているかどうか。わざわざ日本を選んで、縁があって我々のような工場系の仕事に来てくれる。それだけでもありがたいし、大切にしたいという気持ちですよね。

彼らも最先端の部品加工をしているという誇りがあって、お父さん、お母さんに安心してもらえる。現場に入って、彼らとちょっと話して表情を見ただけで、いい関係、いい職場で働いているという感じが非常に受けました。

それでは、3代目のお話を伺っていきたいと思います。私も3代目で、うちは創業105、6年になるんですけれども、それぞれいろんなドラマがあって、いいことも辛いことも、本当に人に言えないようなこともありながら紡いできた。でも、モラロジーというご縁があって、心の持ち方、すべて他人のせいじゃなくて、自分で受け入れながら、次の世代にいいように残していく。多分、同じように鈴木社長も歩んでこられたと思うんですよね。

2.生い立ちと創業の背景

生田

生まれはこちらですか?

芳文

いえ、生まれはここより東京寄りの立川という場所で、祖父が創業した会社もそこにありました。そこから、私が小学校、中学校になる頃に、西東京の方に引っ越しました。

生田

小中は地元の学校ですか?

芳文

そうですね。高校は千葉でした。高校卒業後、自動車関係の方に進みたかったんですけど、父がモラロジーをやっていたこともあって。まあ、反抗期だったので、家から出たいというのがあったんです。

生田

わかります。京都や千葉に行けるのか、みたいな感じですよね。

芳文

そうですね(笑)。

生田

お父様は、もうすでにお祖父様と一緒に仕事を?

芳文

祖父は51歳で他界しているので、私には記憶がないんですよ。父が結婚した時ぐらいに亡くなっているので、私が生まれる前です。

生田

では、お父様とご兄弟で、お祖父様が起こした仕事を?

芳文

父は5人兄弟で、男4人全員がその仕事をしていました。

生田

高校卒業後、大学に行きたかったけれど?

芳文

大学受験に失敗しまして。トヨタ自動車が100%出資している豊田工業大学というところに入りたかったんですが、そこは2年間の実務経験がないと受けられないんです。それで働くことにしたんですけど、当時、父の会社もバブルが弾ける前で一番忙しい時期だったんです。「とりあえずアルバイトやれ」ということで、1989年、高校卒業してすぐに入りました。

で、結果的にそのまま工場にどっぷりと。ちょうど私がアルバイトで入った時に、会社でプログラム制御の機械、NC機械を導入することになって、「若い人は勉強しろ」ということになったんです。NCが出始めた頃で、プログラムでいろいろ工夫もできたりするので、すごく楽しかったです。

生田

仕事に没頭できたし、自分も楽しいと思いながら。その時のお父様との関係や、社員との関係はどんな感じでしたか?

芳文

当時は6人から8人ぐらいで、ファミリービジネスでしたね。他の社員さんも父の幼なじみとか、近所の人とか。その中にいきなり入ったので、本当に身内の会社だったんです。まあ、今思えば、かなり不真面目だったなと思いますけど。

生田

お父様やおじ様を見て、職人さんから学んで。

芳文

そうですね。父は一番最後にその会社に入ったので、どちらかというと営業っぽいことをやっていて、現場というよりはお客様との付き合いが多かった感じです。

3.バブル崩壊と苦難の時代

生田

その後、結婚されて、という道筋は順調でしたか?

芳文

順調ではなかったですね。父の兄弟でやっていた会社が、バブルが弾けて業績が悪くなって。1990年頃からですね。

生田

あの頃の加工業は大変でしたよね。

芳文

そうですね。当時はディーゼルエンジンの発電機の部品とか、工作機械メーカーの部品とか、いろいろやっていたんですけど、仕事がなくなりました。私も昼間やる仕事がないので、昼間は車関係の仕事をアルバイトでやって、夜になると工場に戻って仕事をする、という時期もありました。

生田

会社がこのまま大丈夫なのか、という不安がありましたか?

芳文

父がやっぱりお金で苦労していたのは覚えています。いろんな親戚にお金を借りたとか、そういう話をちょこちょこ耳に挟んだりとか。

生田

私も経営者なので分かりますが、リーマンショックの時も本当に仕事が一気になくなって。国からのいろんな補助金で社員を手厚く守りながら、勉強会を開催して、なんとか凌いだ経験があります。

芳文

父は、バブルが弾ける前の一番業績がいい時に、兄弟でやっていた会社の株を全部買い取ったんです。

生田

それはどういう判断だったんですか?

芳文

次の世代のことを考えて、私に継がせたいという想いがあったんだと思います。

生田

すごいですね。お父様は兄弟の中で長男だったんですか?

芳文

はい、父は長男です。兄弟の中では最後に会社に入ったのですが、長男ということもあり、兄弟がそれぞれ持っていた株を買い取ったんです。

生田

そこでのキャッシュアウトが、リーマンショック後の資金的な厳しさのきっかけになったんですね。

芳文

はい、それが一番大きかったのかなと思います。ただ、それ以外にも、当時は株でも何でも買えば増える時代だったので。

生田

そういうことって、なかなか子どもの耳には入れなかったり、雰囲気で感じ取ったり。親も子供には言えないこともいろいろある中で。

芳文

そうですね。当時はわからなかったんです。ただ単に父が経営を失敗したとしか思えなかった。

生田

そうすると、やっぱり親父がやってきたことに批判的な気持ちがありましたか?

芳文

そうですね。一番は、母が可哀想だと思いました。