会長訪問シリーズ!「親子のアトツギ物がたり」
第4回 中津中央青果株式会社 吉冨麻里子社長/洋子取締役 親子に聴く 前半
出演
- 生田 泰宏
- 日本道経会 会長。生田産機工業株式会社 代表取締役。京都支部所属
- 吉冨 麻里子
- 中津中央青果株式会社 代表取締役社長。
- 吉冨 洋子
- 中津中央青果株式会社 取締役。福岡互敬塾支部長
1.廣池千九郎博士の故郷・中津での再会
- 生田
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事業承継というテーマは、多くの経営者の関心事です。今回は4回目となりますが、福岡互敬塾の支部長として活躍されている吉冨洋子さんをお訪ねしました。2年前の全国大会で、さっそうと着物姿で実行委員長挨拶をされていた姿が印象的でした。今日は、お母様の麻里子社長と一緒に、事業承継のストーリーを伺いたいと思います。
- 洋子
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この度は、はるばる中津までお越しいただきありがとうございます。モラロジーの創建者・廣池千九郎博士のご生家のある中津での再会に、何かすごいご縁を感じております。
- 生田
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本当にそうですね。それにしても、お母様、お父様の存在がすごいなと。まずは、創業からのお話を聞かせていただけますか。
2.創業と二代目・幸吉さんの人物像。
- 麻里子
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私は主婦でずっと来たんです。主人が会社を経営していて、私は家のことをしていました。会社の隣に自宅があったんですけど、主人はやはり会社と家は別という考えを持っていました。でも、お客さんが絶えなかったんですよ。朝は5、6人から10人ぐらい。
- 生田
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創業はお祖父様が一代目ですね。
- 麻里子
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はい。大体、野菜、白菜とかキャベツの問屋をしていたんです。戦争前には、中津では20カ所ぐらい市場があったみたいなんですね。戦争から帰ってきてから、中津中央青果というのは、三社ぐらい合併したんじゃないかな。それから始まって、百年ぐらい経っています。
- 洋子
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祖父の印象的な言葉があります。「欲しいものは買うな。必要なものは買え。」これは今でも心に刻まれています。
二代目の父は、農家によく足を運んで、ニックネームで呼んだりして、人と親しみをもって接していました。40年選手の社員が父のことをよく言っていたのは「友情は厚く、商売は厳しく」。家ではよく「一回家に来たら親友、二回目来たらもう家族」と言っていました。
- 麻里子
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昔は本当に狭い家でね。でも、いつも誰かが泊まりに来ていました。バイヤーさんとか、みんな。主人はホテルを勧めずに「ここに部屋があるから」って言って、私が料理を作るんです。私は料理下手ですけど、早いんですよ。何人来ても、すぐ出せる。鍛えられたんです。
- 洋子
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年に一回の父の日がありますけれども、我が家では毎日が「父の日」でした。父が留守の日が「母の日」。父も母も留守だったら私たち「こどもの日」でした(笑)。
私が生まれて半年の頃、父が肩車をして夏祭りに行ったそうですが、父がどんな時より嬉しそうにしていたのが母の目に焼き付いているという話を聞いたことがあります。
3.昭和的ビシバシ教育と父の愛情
- 生田
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お父様の教育は厳しかったと伺いましたが。
- 洋子
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私には、翌年生まれの弟がいます。二人とも幼い頃、父は昭和的ビシバシ教育だったという記憶がそれぞれにあります。
幼稚園の頃、近くのバレーボールが強くて有名な高校に連れていかれ、一緒にバレーボールをさせられました。古い表面が剥げたケバケバのボールが腕に当たると痛くて痛くて(笑)。
小学校一年生の時は、九九が覚えられるまで、九九の表の前で正座。学校で夏にキャンプがあることがわかると、その2ヶ月くらい前から、父は私に屋外で火をおこさせ、飯ごう炊飯でご飯を毎夕炊くということをさせていました。本番のキャンプの時はもう飽きていましたし、飯ごうも他の生徒のは新品でしたが、私のは表面がぼこぼこに年季が入っていました。
一番厳しかったのが、少しでも涙が出そうになると、そのことを何よりも厳しく怒られ、「絶対に泣くな。歯を食いしばれ!歯を食いしばれ!」と。
ですから、私は感情豊かだと思いますが、悲しいとか辛いとか、嬉しいとか寂しいとかあっても、父の影響か人生で数えるほどしか涙を流したことしかないと思います。
- 生田
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厳しさの中にも深い愛情があったんですね。
- 洋子
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私がだんだんと成長するにつれて、幼かった頃の父とは印象が変わってきました。「思い切ってやれ!心配するな、どうにかなる。」というような。私が少しくらいつまずいても、しくじっても、隠したい失敗を素直に報告できるような父でした。
大学入試の日のことは忘れられません。遠方だったため、生物学を学ぶための大学入試に父が一緒について来てくれたのですが、当日の朝早く起きて、父なりの青果業で得た知識を早朝から私に話してくれました。一世一代の入試の朝に。戦前、戦中、戦後そして現在における人が食に対して求めるものや食文化。生物の特性や働きを利用して、人類の生活に役立つ技術など、結構詳しく話をしてくれました。
そうしたら試験の中に小論文もあったのですが、出題問題が「バイオテクノロジー」についてだったんです。こんなことがあるんだと。
4.父との最後の日々
- 洋子
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父は、市場には私たちがまだ寝ている時間に出社していまして、夜も外出が多いため、そんなにじっくり話すことはなかったのですが、亡くなる4年ほど前に腰を骨折しました。
そこから入院や自宅療養が始まり、父の考えや思い出話を聞く機会が増えました。必ず誰かが必要なため、母も私も4年間一緒に出掛けることがなかった。
入院中、父は人に対して名前で呼んでいて、仲良くなっていて、その人の週末の予定まで知っていました。また、誰に対しても同じ接し方。例えば、大臣に対しても農家さんに対しても子供に対しても。
またモラロジーから出版されている偉人の絵本を何度も何度も読み返し、その素晴らしさを入院中に他の患者さん、医療従事者さんたちにも伝えていました。
朝のテレビ小説「トト姉ちゃん」というドラマがありましたよね。お父さんが早く亡くなって妹たちにお父さん代わりになる「トト姉ちゃん」。父が私を「トト姉ちゃん」と呼びました。それが、父が元気なら受け入れられたのですが、当時はそれがつらかったです。
「水!コップに汲んで」と父が私に言うと、「でも、近くで話す洋子が汲んでいる間にいなくなるなぁ」と。「洋子は3人必要だなぁ」と。
「一人は水を汲んでくる。一人は自分のそばで会話をする。もう一人は洋子自身の人生を歩む。」どういった意味だったのか、時々振り返ります。
今は、とうとうトト姉ちゃんだと思っています。悔しいけれど(笑)。今も父の喜ぶことを考えながら動きますので、まだ毎日が「父の日」が続いているのかもしれません。
5.父の書き残した言葉
- 洋子
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父の腰の骨折があり、見守りが必要で以前のように簡単には出かけられない数年を父と過ごしていたのですが、皇居勤労奉仕には行っていいという許可を得ていました。しかし、皇居勤労奉仕が目前に迫った一週間前に父が亡くなりました。
父とは一緒に一台のパソコンを使っていたのですが、父のなくなった後、父の打った文書を目にしました。父が骨折の時に書いたものでした。
その中に、こう書かれていました。
「人生は、やはりモラロジーです。私は、この度、大怪我をしました。その時に初めてモラロジーの偉大なことを再確認しました。これまでにモラロジーを勉強してきたのですが、まだまだ幼稚園にもたどり着いていないことに気がつきました。今すぐに再度真剣に勉強することが大切である、と確認しました。(中略)例えれば無免許で、家族を車に乗せ、会社のスタッフを乗せて運転をしていたのと同じです。取引先様や友人知人までも、道連れにしているのと同じです。ぞっとしました。やはり人生の真の免許を取ることが何より一番です。(中略)慈悲寛大自己反省の基本を真剣に実行します。今までのことをすべて反省して真から謝罪して、すべてに感謝して心から実行して残りの人生を過ごします。
平成26年10月5日(人生の怪我大病の時)」
日付が父の誕生日でした。
誰かが読むとは全く思わず素直に自分の誕生日に書いた文書だということが読んでいてわかります。
亡くなる数ヶ月前に食事中に「わが人生に悔いはなし」と父が突然言っていました。
その時、やはり涙がこぼれ落ちそうになりましたが、「歯を食いしばれ、絶対に泣くな」が浮かびます。
- 生田
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お父様の言葉の重みが伝わってきますね。