一般社団法人日本道経会

会長訪問シリーズ!「親子のアトツギ物がたり」

第6回 株式会社三国一
橋本皇子会長/光世社長/容行マネージャー 三代に聴く 中編

4.光世社長への社長引継ぎと三国一の「人を育てる」文化

生田

今はもうすでに社長をされてますけど、アトツギまでのいきさつをお願いします。

光世

私が理事長の秘書を4年させていただいていたんですけど、その最後の頃にお声がけいただいて。

父も母も理事だったので存じ上げてましたし、「どうだ」ということで、理事長からも「行かないか」というような感じでした。私女性ですので、会社を継ぐっていうのは、男性を探されているのかなと思っていました。そうしたら母から、「好きな人がいたら連れてきてくれたらいいです」って言われたんです。それで結局、先に私が一人で入らせていただきました。

生田

おいくつの頃でしょうか。

光世

31歳でしたかね。

私は母と一緒で、結婚するとかいう気はなくて、最後まで理事長に仕えると思ってたんです。理事長にもそれをお伝えしたのですが、「そういうわけにはいかん」とおっしゃいました。そういうお話で、来させていただきました。

私の実の父と母ももちろんモラロジアンで、私は3代目なんですけど。橋本という家を知っていたわけじゃないので、「どんなところか」と言いながらも、モラロジアンなんだからということで安心して。

生田

ご両親さんも安心されて。それからどんな日々が始まったんですか。

光世

もう父も母も本当の娘のように扱かっていただいて。

旦那さんはお婿さんとして京都から来てくれるんですけど、理事長にご紹介いただいて。私の実の父と旦那さんの父が青年部ですごい仲良かったようなんですね。

当時は国際会議を催すようなところにお勤めで、その前にカナダの大使館にいらっしゃっていうのは聞いていたんですけど、私は彼に「本当にもう大変だから考えられてもいいじゃないですか」って言ったくらいなんですけど。そしたら彼は「いや、三国一と結婚しません。この人と結婚する」っていうふうに申しましたね。

生田

やっぱりこのお二人を迎えられて、ご主人さんも三国一を託すには、方針をしっかりと。

皇子

企業の一番大事なことは、人を育てること。今、三代目(容行)が外国人のアルバイトの子の面倒をよく見てくれているんですよ。大学関係の書類から何から何まで。

光世

寮の女の子が日本語学校に入るためにミャンマーから来てるんですけど、その学生の子は優秀で日本の大学を受けるんです。ただ、受験の書類の書き方がわからない。

容行

日本語学校によって面倒を見てくれる日本語学校とそうでない日本語学校があるみたいなんですよね。それで、そのミャンマーの学生なんですけど、日本にきて2年経たないくらいで大学を受験することになったので、日本語はできても書類の書き方がわからない。それを聞いて、店舗の営業終わりに全部書類を見せてもらって、「願書をこうやって作って、こうやってコピーして」って。店舗のプリンターから出力して、郵便局が西口店のすぐ近くにあるので、営業前に一緒に出しに行って。営業後にまた違う大学の願書を一緒に書いてっていうのをやりました。

生田

このお孫さんのね、お話聞いたりすると、もう安心ですね。

皇子

そのミャンマーの大学生が今、拓殖大学に行ってるんですね。その方の日本語学校の卒業式にも、妹と一緒に二人で家族として行ってくれたんですね。そういう体験談をね、毎月ここで開催しているセミナーの体験談で初めてわかって、やっぱり私は自分のしてきたことをわかってくれたっていうので、すごく本当に感激しました。

生田

ありがたい話ですよね。

皇子

私たちは義理の仲で血のつながりはないんですけど、やってきたことは、法則に従ったことをやってきたら、必ずそれはつながっていくっていうことを、それを私は確信しました。

生田

これは血のつながりあるなし、国籍・色も関係なく、ご縁のあった人たちに幸せになってほしい。人をつくるいうことをずっとご主人様とやってこれたことが、宝としてね。宝やな。

皇子

同じ人間に生まれてきたんだから、絶対差別したらいけない。夫も貧乏な家庭で生まれてきましたから。夫は小さな時にそういう体験しているところですね。だから必要以上のものを持つこともないし、みんなを大事にして仲良くするのが一番と申しておりました。

5.父と祖父との別れ、そして三代目の成長

生田

私が非常に印象に残っているのが、東京でお父さんが亡くなられて、お葬式に参列をさせていただいた時に、最後、小学生やったよね。手紙を読んでる姿、はっきりと覚えてます。

容行

私自身は本当に記憶が全くなくてですね。手紙は残ってるんですが。

光世

今でも覚えてるんですけど、手紙を読み終わって、あの後送られるから車に乗りますよね。それで私の横にちょっと乗った途端に、「かか様、泣いていい」って言ったんですよ。それまで泣けなかったんでしょ。これ読まなきゃいけないから。それでうわーって泣いて。もうそれはすごく覚えてます。

生田

その一年間のことがあり、お父さんお母さんもお元気でおられたんだけども、もうまさしく跡取りとしてやっていかなあかんっていう胸中というか覚悟、どうだったんですか。

光世

もうあれよあれよという感じでしたね。父がまだいてくれたので。父が社長、母が専務でいてくれて。父もよく訪ねてくれて、夕飯頃に来てくれて子どもたちを見てくれて。

生田

小学校3年の時ですよね。

容行

記憶ありますね。下の妹弟をお風呂に入れて寝かせて、母が帰ってきて、お帰りって言って、何度か病状の話をされた記憶があります。唯一僕しか話がわからなかったのもあると思います。

光世

夫が「私が入院したらお前が一家の長だぞ」って言っていくんですよ。「お母様を助けるのもお前だぞ」って言われてるんですよ。その小学校2年の時ですね。その時から多分、「僕がやらなきゃ」っていうのは思ってると思います。きちっとその2人(の弟妹)が寝てからこの人(容行)を呼んで、「明日から入院するけれども」って言って入院しに行ったんですよ。

生田

その前日のこと覚えてる?

容行

覚えてます。「一家の長」っていう言葉。

もっとビデオとかあったらよかったなって思うんですけど、今思うと。もう肉声も覚えてないですし。小学校から帰ってくるとメモが置いてあって。「お帰り」だったり「今日どうだった」みたいなメモが毎日置いてあったんです。その文字ぐらいしか僕はあまり覚えてないんです。2人で一緒に何か会話をしたっていう記憶はないんですか会話というよりかは、一緒に映画を見たりした記憶しかないですね。

生田

学校出てからね、自分のやりたいことをやった時代を経て、やっぱり戻ってこようと、そして「次は俺がやるんだ」っていう気持ちを固めたと思うんですけれども、自分のやりたいことと、三国一の跡取りという狭間での葛藤はあったんですか。

容行

ありました。まず父が他界した後、小学生後半くらいから反抗期じゃないですけど、もう嫌で嫌で仕方なくて。新宿が嫌だし、家が嫌だしっていう時期があって。それで瑞浪に。寮がある学校に行きたくて。

光世

瑞浪に行くことに3組のおじいちゃんおばあちゃんは大賛成じゃないですか。そんな嫌で行ってるとも思ってないので。だけど私の立場として、次男を生かそうかなっていうぐらいに思ってたんです。そしたら結局この子が反抗期になって自分一人で瑞浪を見に行くって。それで帰ってきたら、「仏壇の前にちょっと座ってくれ」って言われて、「僕は瑞浪に行きます」って宣言してそれで行くことになる。

生田

もうしっかり自分の意志を持った男に、ちょっと早いけどなってきたんやんか。

容行

自分で決めたのはすごく覚えてます。瑞浪に降り立った瞬間、ちょっと冬でちょっと寒くって気持ちいい空気で、ずっと僕新宿で都会育ちなんで、こんなに気持ちいい空気や美味しい空気があるんだと思って。すっごい空気が美味しかったっていうのをすごい覚えてます。

それで瑞浪に行って、6年間お世話になっていました。その中でも跡継ぎだとかっていう感覚は全くなく、自分のやりたい学生生活を送り、テニスに打ち込み、高校3年生の時に祖父が倒れました。

その時は早いなっていう感覚が僕の中にはあって、もっともっと元気でいて欲しかったし、もっと話をしたかった。やっぱり祖父がもうちょっと生きてくれてたら、経営について、三国一について直接聞けたのに。それが聞けなかったのが本当に自分としてはとっても残念ですね。もっといろんな話を聞きたかった。