一般社団法人日本道経会

ある社員の話

村田 浩康
  • 日本道経会 静岡支部
  • 村田ボーリング技研株式会社 社長室/営業2課

2022年9月26日。弊社の社員Sが亡くなった。享年68歳。肺がんだった。その日の事はよく覚えている。数日前には病室で目を合わせ、呼吸器に繋がれた状態だが、何気ない会話をしたばかりだった。ただし、あと数日の命だという事も、訪れた我々は分かっていた。

彼は高校を卒業後、50年以上村田ボーリング技研にて勤めてくれた。汎用旋盤一筋の、わが社では凄腕の職人だった。頑固で口は悪いが、憎めないその性格から、社員の皆に愛されていた。タバコが大好きだった。

彼は健康診断で“要再検査”をいつの時期からか毎回出されるようになっていた。しかし、大の病院嫌いで医者にはかからなかった。

2021年の1月5日。毎年恒例の経営計画発表会を行った。弊社としては、新事務棟が竣工して初めての発表会。全社員が一人ずつ抱負を述べる。

彼は50年勤続表彰の対象者でもあった。表彰を受けた後のスピーチでこれまでの感謝を述べた後、

「67歳になった。おらはいつまで生きるか分からない」と言った。皆、冗談かと思い笑った。

しかし翌年1月24日、就業中に病院へ救急搬送される。

私は事務所で打合せ中だった。ガラス越しに彼が倒れるのが見えた。病名は肺がん。ステージ4。

あとから思えば予感はあったのだろう。彼は治療に専念するため、会社を休む事が決まった。

数か月後、彼は突然作業着姿で通常通り出社する。薬が効いて体が楽になり、仕事がしたいという。

朝礼から参加してくれた彼を、みんなは驚きながら拍手で迎えた。副作用で髪が短くなり、少しの痛ましさもありながら、まさかの復帰にみんな沸き立った。

彼の機械はいつ戻ってきてもいいように、彼が普段ピカピカにしていた状態を、仲間で維持していた。半世紀握り続けたハンドル。すぐに戦力となった。だが、神様は長い時間をお与えにはならなかった。

8月に入り、体調が優れず病院に行くと“肺炎”の診断がでた。医者からは「もってあと一か月」。

あまりにも短い余命が宣告された。当時はコロナ禍で、面会謝絶が常だった。そんな中で我々の面会が許される頃には、彼は大部屋から個室に移っていた。訪れる人はその意味を考えながら、しかし顔には一切出さずに声を掛ける。

「戻ってこいよ。みんな待ってるからな。」「Sさんの為に機械は綺麗にしてあるからよ。」「口うるさいのが居ないと調子狂っちゃうんだよ。」受入なければならない厳しすぎる現実。だからこそ、みなで奇跡を信じた。

彼には弟子がいた。歳の差は40以上。専門学校を卒業後、彼の技術を間近で教わった。元々のセンスの良さもあいまって、いつしか正当な後継者として、一目置かれるようになっていく。

彼はSさんを心から尊敬していた。大好きだった。だが、彼はお見舞いにいかなかった。

「もう、時間がないかもしれない。いかないのか?」「はい。弱った姿を見られるのは嫌だと思うんで。」“後悔しなければいいが…”と思ったが伝えられなかった。“辛い現実。受け入れ方は人それぞれか…”そんな風に受け止めた。

そして時は来た。2022年9月26日(月)未明 永眠。全員が信じた復帰はついぞ叶わなかった。もう二度と、彼が旋盤を触る日は来ないのだ。本当に悲しい人がほかにもいる。大声で泣きたい気持ちをぐっとこらえた。

午後になり、夫人が来社された。これからの予定と一つのお願いの為だった。「主人の棺に、作業着を着させて入れてあげたいのですが、お許しいただけますか。」「仕事が大好きだったから。主人も喜ぶと思って。」言葉にならなかった。そこにいた私たちは、全員泣いていた。心の底から嬉しかった。

3日後、通夜式、告別式が執り行われた。彼は穏やかな顔で棺に入っていた。誰かが入れた、愛用の測定工具が手元に置かれていた。作業着を着ているためか、棺の中なのに最後まで格好良かった。

式の会場から斎場へ向かう途中。夫人ともう一つ約束したことがあった。それは“寄り道”の約束。

彼を乗せた霊柩車は国道一号線を曲がり、丸子の工業団地へ入る。ここは日本でも最古に部類入る金属加工専門の団地だ。2番目の角を左に折れ、工場を横目に車が直進していく。“Sさん、今まで本当にありがとう”段ボールと模造紙で作ったお手製の垂れ幕。村田ボーリング技研の全社員で彼を迎えた。

「Sさん、今までありがとうございました!!!!」代表が泣きながらお礼を述べる。「ありがとうございました!!!」続けて叫んだみんなも泣いていた。霊柩車は改めてクラクションを鳴らし、斎場へ向かった。手を合わせ、秋晴れの空に彼への感謝の誠を捧げた。

…後日、弟子の彼が話してくれた事がある。実は彼はお見舞いに行っていたという。

「みんなとは行きたくなかったんです。たぶん、顔を見たら何にも言えなくなると思ったから。だから有給をとって一人で行きました。言葉に詰まるだろうから、手紙を書いていったんです。」

彼は泣きながら、病室で手紙を読み上げたそうだ。Sさんはどんな気持ちでその手紙を聞き、受け取ったのだろうか。

亡くなってすぐは昼食も食べられず、ふと思い出しては車の中で一人泣いていたという。互いの深い絆を感じたエピソードだった。同時に思った。私は誰かのその「ひとり」になれているのだろうか。思わず胸に手を当てた。“どう生きるのか”深くて広いこの問いを考え続けていきたいと思う。

実践事例